ひよこの葬列 -11-  次の日からしばらく、私は教室で姉井を観察していた。理屈の上では何もして来ないだろうと思えても、本当にそうなのかと考え始めると、どうにも気が抜けなかった。私の口からは、ひよりに目を付けられないように大人しくしていてくれと言う事も出来ない。  姉井は休み時間ごとに違う相手と話をし、真面目に授業を受け、放課後になるとさっさと教室を出て行く。それは毎日の事で、私と帰った日からも変わりなかった。家の前まで来て信じろと語った熱意はどこかへ消えてしまったのか、他の者にするのと同じように挨拶を交わす他は、一切関わろうともして来ない。まさか自分が話をした事さえ忘れているのではないか。  数日もすると、私は姉井を警戒する事にも慣れてしまい、姉井とひよりが出会わないようにと気を揉んでいるのが馬鹿らしくなっていた。姉井には始めから、自分が何かをしようというつもりはなかったのだろう。占い師というのは元々そういうものなのかもしれない。  そのまま何事もなく休日を迎えた私はひよりと居間にいた。いるといっても、一緒に何かをする訳ではなく、ただ同じ部屋にいるだけだった。ひよりが家に来てからもうひと月になるが、相変わらず飽きもせず新聞を読み通しでいる。  私はひよりに、最近変わった事がないか訊いた。ひよりが何もないと言えば、それできっぱりと姉井を気にするのをやめるつもりだった。 「新聞には変わった事しか載らないよ。……まぁ、それが変わってないと言えない事もないのかな」  ひよりは私が新聞の事を訊いたと思ったらしい。しかし、それがひよりの周りにも気になる事がないという証明だろう。私は姉井の事を黙っておいたのが正しかったという確信を得て、大きく安堵した。 「誰か来たよ。友達かな?」  顔も上げずにひよりが言ってから数秒、インターホンが鳴った。  私には人の気配のような物は一切感じられなかったが、人外はそうした感覚が人間より優れているのだろうか。感心しながら玄関へ向かう。  大きく扉を開くと、頭二つ分下から私を見上げる姉井と目が合った。動きやすさを重視したようなラフな私服姿で、右手にはT字型の杖を携えている。姉井は脚が悪い訳ではない筈だが、伊達で持っているのでもなさそうだった。 「君はここにいてくれ」  言いながら、姉井は私を押し退けて脇をすり抜けると、靴を履いたまま玄関を抜け、短い廊下を足早に進む。私がよろめいて壁に手をついている間に、リビングの前のドアに手をかけていた。  何が起こっているのかはすぐに理解できた。姉井に何もするつもりがないというのは誤りだった。姉井はただ、今日という日を待っているだけだったのだ。  私は慌てて姉井を追いかけるが、姉井は私の制止を無視して、破るようにリビングへの扉を開け放つと、既に部屋の中央に立ち上がっていたひよりと対峙する。  姉井は杖を手の中で反転させると、その先端をひよりに向かって真っ直ぐに突き込んだ。  杖の軌道に巨大なひよこの頭が割り込む。杖の切っ先が触れると、何の抵抗もなく頭を貫通した。ひよこの片目が裏返って、嘴から鮮やかな赤い血を吐く。血に濡れた芋虫の様な細長い舌が、嘴の中でいくつも蠢いているのが見える。ひよりの左腕が姿を変えて、ひよりの盾になったのだった。 「何だ?」  姉井とひよりの声が重なった。姉井は姿を変えたひよりの異形に、ひよりは姉井の杖が自分の頭をあっさりと貫通した事に驚いているようだった。ひよりの異様は当然として、その頭を杖と細腕一本で骨ごと貫く姉井も常人とは言い難い。  ひよりは片方の眉を一瞬吊り上げたが、それをすぐ元に戻すと、頭に突き刺さったままの杖を絡めとるように首を捻る。武器を奪われまいと姉井がたたらを踏んで抵抗すると、傷口が広がったのか、嘴から垂れ流しになっている血が俄かに勢いを増した。  続いて右腕が変形し、揺れる嘴が姉井の胸に狙いをつける。姉井は杖を抜くのに手間取って動きが鈍っていた。 「殺してあげる」  ひよりが実際にどの程度の力を持っているのか私は知らない。姉井が私と同じように痣を作る程度で済めば良いが、そうではないかもしれない。ひよりは本当に姉井を殺してしまうのだろうか。  私はとっさに飛び出して姉井を突き飛ばしていた。  既に動き始めていたひよこの頭は嘴を下げるが勢いは衰えず、姉井と入れ替わった私を頭突きで撥ね飛ばす。私は肺から空気を押し出されて一瞬宙に浮くと、柱で跳ね返って床に叩きつけられた。 「馬鹿が」  ひよりが私を罵る声が降ってくる。いつの間にか杖が抜けた頭からの出血はますます酷くなっている。床に落ちた血はフローリングの溝を伝って、私の頬を濡らした。  私は痛みに呻くのを堪えて、姉井を殺さないよう言うのが精一杯だった。 「殺さない理由がないよ」  ひよりが人間を殺す事に躊躇いがないとしても、この家で暮らしていくからには殺さない理由がないとは言えない。人一人殺してこのままという訳にはいかないのだ。 「今更そんなのどうでも良いよ。それよりこいつ、姉井?知り合いか。私を殺す為の人を呼んでたんだね。私あなたの事気に入ってたのに。酷い。裏切りだ。あなたも殺すね」  私が姉井の名前を呼んで庇ったので、ひよりは私が姉井と一緒になって自分を殺しに来たのだと思っているらしかった。それなら私が玄関で姉井を止めようとするのもおかしいと思いそうだが、そのやり取りまでは聞こえなかったらしい。私は自分が姉井とひよりの仲裁をしなければならないと思っていたが、先にこの誤解を解かなければ、何を言っても自己弁護としか受け取られないだろう。 「待ちなよ」  私に突き飛ばされて床を転がっていた姉井が、白い息を吐きながら立ち上がった。体温が上がっているのか、全身からも薄く蒸気が揺らめいている。しかし杖は手放してしまったらしい。丸腰だった。 「私は呼ばれて来た訳じゃないよ。自分で勝手に来たんだ。だから」 「うっせ」  ひよりは姉井の言葉を遮って嘴を飛ばす。姉井が反射的に左腕をかざして受け止めると、骨が砕けたのか、関節と関係ない所で柔らかく折れた。姉井は短く喉で引くような声を上げて折れた自分の腕を掴むと、それきりだった。 「私あなたの言い訳が聞きたいなぁー」  頭上に伸びてきたひよこの頭から流れる血で、私の全身は血で濡れていない所がない程になっていた。ひよりはわざと私に自分の血をかけているのだ。血が目に入ってくるのでまともに顔を上げる事も出来ないが、避ける事も出来なかった。  ひよりが私の話を聴くつもりがある内に、出来るだけ簡潔に誤解を解かなければならない。出来なければ、私も姉井も殺されて終わりだ。それを防ぐ為に何を言うべきか、私は最大限に思考を回転させる。  私が口を開こうとした瞬間、窓ガラスが割れる音が部屋中に響き渡った。巨大な棒状の何かが、窓を割って部屋の中に突っ込んで来たのだ。  先端に錨か銛の様な返しが付いたその物体は、角度を変えながら何度も前後して部屋の中を掻き回す様にしながら、明確な意図を持ってひよりを追い回す。特筆すべきはリビングの端から端まで貫きそうなその長さで、外にこれを操っている人間がいるとすれば、全長は十メートルを優に超えていそうだった。  ひよりは視線を窓の外の一点に向けたまま、細かく足を刻んで、最小限の動きで銛を躱していく。何度目かの突きが胸先を掠めた隙に、長い肉色のひよこの首が柄に巻き付いて締め上げると、途端に銛は白い煙になって姿を消した。  銛が消えると、後は急に静かになった。姉井は既に廊下を引き返して逃げ去っている。直前に私の腕を掴んで一緒にこの場を離れようとしたが、私はそれを振りほどいて、姉井だけを逃がしていた。姉井は私を置いていくのを渋る様子だったが、銛の時間稼ぎがそう続かない事を悟ってか、長くは留まらなかった。 「なんで逃げなかったの?」  血の海の真ん中で、何事もなかったかのように振り返ると、ひよりは言った。出血は既に止まっており、見る間に元の人の腕に戻っていく。  私は両手を当てて目の周りの血を拭った。手も血まみれで上手く拭えなかったが、目に流れ込もうとしてくる血だけは払えたので、それでやっとまともに目を開く事ができた。血を吸った服が重く、身体や床に張り付くのが不快だった。  私は逃げる必要がないから逃げなかったのだと答える。ひよりには私の話を聴く意思がある。それは私がひよりを裏切ったのでは無いという事を私の口から聞きたいからだろう。そうでなければ、姉井にしたように、何も訊かずに私の骨を砕いて、そのまま殺してしまえば良いのだ。そのひよりの前から逃げるという事は、それこそ本当に酷い裏切りになると思った。  ひよりは私から目をそらすと、小さく溜め息をついた。 「恩着せがましい言い方。……仮にあなたが私を殺そうと思ってたんじゃなかったとして、あなたが呼んだんじゃないなら、あれは何で今日ここに来たの?あなたが何も関係してないっていうのはちょっと考えにくいよね」  私はそれに上手く答えられなかった。代わりに、学校で姉井に占われてから今日までの事を話す。占いだけで姉井がここまでの事をやるとは思わず、しかしひよりは姉井を殺すかもしれないと思うと、何も言えなかったのだ。 「ふぅん。占いを信じるかっていうのはそれの事だったんだね。……信じてないって言ったのが悪かったか」  ひよりは食卓の椅子を引いて腰を下ろした。汚れを弾く能力を使っているのだろう、ガラスと血が飛び散ったリビングで、その中心にいるとは思えない清潔さだった。血だまりを踏む足の裏すら汚れていない。 「結果から見ると、姉井はそういう超能力者なんだろうね。手相占いっていうのは嘘で、相手に触るか何かを条件に相手の記憶を読む能力なんでしょう。あなたの記憶から私の事を知って、殺しに来た」  当然のように出てくる超能力者という単語は、やはり私には受け入れ難かった。行動は不可解だが、これまで同じ教室で共に過ごしてきた姉井は限りなく普通の少女で、超能力と呼べるような特別な力が備わっているとは思えなかった。それ以前に、そんな人間がこの世に存在しているのだろうか。 「私の頭に刺した杖、逃げる時には持ってなかったけど、この部屋のどこにも落ちてない。あれは超能力で作った武器だよ。良くあるパターンだから私も知ってる。能力者の身体から白い煙のようにして出てきて、能力者の身体から離れるか、能力者自身の意思で煙に戻って消える。窓から攻撃してきた槍もそうだね。じゃないとこの住宅地であんな長物持ち運ぶなんて無理だし、ちょっと先が尖ってる程度の棒きれで私の頭に穴をあけるのも無理だ。人外の超能力は信じて人間の超能力は信じないっていうのもおかしな話だと思うけど」  ひよりは私の態度が変わらないのを見て大きくため息をつくと、テーブルに片肘を突いた。 「これはあなたの話を私がどう解釈したかっていうのを言ってるだけだよ。あなたが私の話を信じるかはどうでも良いな。あなたに有利な流れになってるのに違うって言いたい理由が分からない」  ひよりが私を信じるなら、私もひよりを信じるのが筋だろう。もとより私はひよりが嘘をつくと思っている訳ではない。超常の存在に対して疑いや否定から入ってしまうのは、それらに慣れるのにまだ時間がかかるというだけだ。  ひよりの話からすると、姉井は私の記憶を読んだが、それは完全ではなく、私がひよりに脅されてこの家に棲みつかれていると思い違いをしているのだろうというのが私の考えだった。ならば、姉井の勘違いを正せば姉井がひよりを襲う理由は無くなる。そうすれば、今日の事を水に流すなら、ひよりも姉井を殺す必要はないだろう。 「いつもの楽観視だね。ああいうのは趣味で人外を殺したがるものだよ」  ひよりが言う通り、姉井が自身の快楽の為にひよりを殺そうとしているのであれば、その時は私も強いて姉井を庇う事は出来ないだろう。だから姉井を殺しても良いと言う事は出来ないが、それよりも、私はあの日私に信じろと言った姉井を信じるつもりでいた。  私が姉井を説得出来ればひよりからは姉井に危害を加えないようにしてくれと頼むと、ひよりは細い脚を組んで考える素振りを見せてから、簡単そうに言った。 「良いでしょう。やってごらん。駄目でも別に良いや」  私は思わず、それで良いのかと返した。私なら、自分を殺そうとした相手を許そうとも、その為の話し合いを他人に任せようとも思えないだろう。  ひよりは塗ったばかりの爪を見るような仕草で、くぼんだ自分の掌を眺めた。 「良いよ。でも、私が死体を食べるって事まで姉井が知ってたら、今度はあなたが殺されないかな?」  ひよりが人を食う化物だとしても、それは死んだ者の事を想ってする事である。あの場に居もしなかった姉井達に何が言えるだろうと言うと、ひよりはそれには答えなかった。 「その時は、私を殺そうとする奴らの事なんか庇うからこういう事になったんだって思いながら死んでね」  ひよりは私の頼みを聞く理由を喋っているのだろう。始めから私が失敗すると思っていて、そのために好きにさせておくのだ。  ひよりにとって、姉井達は羽虫程度の存在でしかない。力の差は歴然で、あの二人では何度やってもひよりには勝てないだろう。すると、ひよりの怒りは全て私だけに向けられている。  自分の敵を庇うのが気に食わないのは当然である。ただ、私はどちらか一方だけの味方をするつもりはなく、姉井の方がひよりより弱いと思ったから庇ったというだけだった。しかし、実際には姉井には他に仲間がおり、私が庇う必要があったのかは分からない。槍使いは私の動きを見て姉井の援護を先延ばしにしていたのかもしれない。そうすると、私がした事はいたずらにひよりに孤独を味わわせただけなのかもしれなかった。共に生活したひと月の間、ひよりは私以外の誰とも話もしていないのではないか。  いつの間にか、この子供は痛々しいほど私に懐いていたのだ。  私は姉井を庇うのをやめるべきかと思う程になっていたが、そうする訳にもいかない。ただ、もし姉井がひよりを襲うのを止めなければ、次は私はひよりだけの味方でいようと思った。  私が詫びると、しばらくしてから、ひよりの声が聞こえた。 「とりあえず、床掃除してくれる?新しい窓も届けて貰わないと。細かいガラスが散らばってるから気を付けて。私もちょっと踏んじゃった」  足に付いた何かを落とすような仕草をしながら、ひよりは私に小さく笑って見せた。  私が床に飛び散った物を片付けてシャワーを浴びている間、ひよりはコップに何杯も水を飲みに台所とリビングを往復していた。ひよりは少なくとも二リットル以上は血を流している。その水分を補おうとしているのだろう。歩き回る体力が残っているのが不思議だが、もはや驚きはしない。  掃除が終わる頃には私はどっと疲れていた。ひと段落ついて床に座り込むと、ひよりが膝を立てて近寄ってくる。 「痛い?」  柱に打ち付けたのを心配しているのか、ひよりは私の背中を探るように何度も指で押しながら言った。痛みは背中だけでなく全身に及んでいるが、今回も大事には至っていない。狙って力を加減しているなら器用と言うべきか。 「それは結構。でも、誰かの身代わりになるような真似は二度としない事だね。そんな事してたらすぐに死ぬよ。今回は寸止めできたから良かったけど」  頭突きが当たっていたので寸止めは出来ていないがと軽く言うと、 「私が本気で突くのに比べたら、当たってないのと同じだよ。人間の骨なんかすぐに砕けるんだから」  最初にもっと痛い目にあわせといた方が良かったかなと続けて、ひよりは私の胸を拳で軽く叩いた。既に痕も残っていないが、あれも完全に治るのに時間がかかったものだ。 「まだ血ぃ付いてるよ」  ひよりに言われて手を見ると、人差し指の先に薄く血が滲んでいた。親指でこすると鈍く痛む。血は私の物だった。ひよりに吹き飛ばされて床に手をついた時に擦りむいたか、掃除中にガラスで切ったのだろう。 「あぁ、怪我してたのか。絆創膏貼る?どこにあるか知らないけど」  ひよりは大きく身体を捻って部屋を見渡すが、目につく場所に薬箱はない。  私は唾でも付けておけば治ると言っておいた。言われなければ気付かなかった程度の傷だ。いちいち絆創膏を貼るのも煩わしい。 「じゃあ舐めといてあげよう」  言うや否や、ひよりは私の手を取って指先に口を付けた。長く柔らかい舌が唇を分けて、滲んだ血を吸い取る蛭のようにじっとりと指を這う。ぐるりと巻き付くと、口の中に引きずり込むように力が入った。  傷を焼き溶かすようなひよりの舌の熱さに私は一瞬心を奪われかけたが、我に返ってすぐ手を引いた。  ひよりは笑う。 「人間は美味しいねぇ。脳が溶ける。血滲む指は棒飴かな?」  下瞼を持ち上げて目を歪め、口端を吊り上げるひよりの笑みに私はぞっとした。人食いの人外の口に指を入れるなど、自分を餌にするようなものではないか。様々に理由をつけても、やはりひよりには人食いの本能があるのだ。知性の無い笑みだった。  ひよりは笑みを浮かべたまま、長い間私の血を口の中で転がしていた。しばらくしてから、自分の唾液と混ざったそれを大きな音を立てて飲み下すと、寒気のする笑みは掻き消えて、後は無表情に私を見ていた。 「そう怖がらないでよ。性質の悪い冗談だったのは私が悪かったから」  暗い声でそう言うと、ソファに倒れた。 「疲れた」  私はひよりから視線を外して床に目を向けた。残っているのは血を拭き取られて湿ったフローリングだけだが、私はそこに広がる夥しい量のひよりの血を幻視していた。  ひよりは怠そうにソファから左手を垂れ下がらせている。掌から裏返しの手の甲には、肌が褐色にくすんでいる所がある。姉井に杖で貫かれた跡だ。ひよりが普通の人間であれば、ひよりの手はもう動かなかっただろう。それ以前に死んでいたかもしれない。  私がひよりにあらかじめ姉井の事を話しておけば今日の様な事にはならなかったのだろうか。 「自分で決めなさい」  私は何もかもを丸く収めたかっただけなのだ。しかし、実際にはそうなっていない。今ひよりが倒れているのも、姉井が腕を折ったのも、私がそうしたのだ。今日この家で誰かが死んでいれば、それは私が殺したのだ。その事に気付くと、私は急に吐き気がした。