ひよこの葬列 -14-  学校に行く途中で、用水路に川霧が立っているのを見た。水面を薄い蒸気がうねるのは、湯が流れているようで見た目には暖かい。朝が終わって霧が見えなくなっても、外は耳が痛くなるほど寒かった。  ひよりは時々私の帰りについて来るようになっていた。何も言わず学校の前で待ち伏せていたり、道中でばったりと出くわす日もあれば、いつかのように予め約束をしている日もある。時々と言うには若干頻度が高いが、時間帯的にさして不審でもないので好きにさせている。何より、ひよりといるのは楽しい。  ひよりが掴んでいた私の手を放した。ひよりはいつも指を握るので、私からひよりの手を握った事はなく、ひよりが離そうとすれば、私達の手はあっさりと離れてしまうのだった。  ひよりが立ち止まった気配を感じて振り返ると。ひよりはどこか遠くを見ていた。考え事をする時のそれではなく、何か確固たる目的の物を見ているようだった。ひよりには実際に見えているのだろう。それが何か、私にも分かる気がした。 「用事が出来た。悪いけどここで別れよう。今日のご飯はいらないよ」  私はひよりが一方的に言い放って速足で歩き始めたのを追いかける。ひよりは数歩先で立ち止まりながら、身体半分で私を振り返った。 「何でついて来るの」  私は、人を食うのだろうとひよりに言った。私に話せない、急に食事が必要なくなる理由もそれ以外に思い浮かばなかった。ひよりはこれから私を振り切って、見知らぬ誰かのために人外流の葬儀を行おうとしているのだ。 「嫌な所ばっかり察しが良いんだから」  ひよりは顔を背けて眉を顰める。それから、横目で私を見た。 「分かっていてついて来るのは何のため?死体が見たいの?」  私が知りたいのはひよりがなぜまたこんな事をしようとしているのかという事だった。亡くなった人を私に隠して食う理由が今のひよりにあるとは思えない。むしろ、青年と同じく私に任せようとするのがこれまで聞いてきたひよりの宗教観だった。人間を弔うのは同じ人間である方が好ましい、これまで一貫してそう言い続けてきたひよりが、ここに来て急に意見を翻したようにしか私には見えなかった。あるいは、ひよりはこれまでも私に隠れて人を食い続けていたのだろうか。人食いの衝動がひよりに死者を襲わせているのだろうか。 「目の前に死体がある訳でもない、あなたが存在を知りもしない人だよ。死んだ事すら私にしか気付いて貰えない人。顔も見た事がないあなたに何を任せるって?」  外では誰とも話もしないと言っていたひよりが故人の孤独を知っているような口ぶりでいるのが不思議だった。超能力によって人の心や記憶が読めるとして、ひより自身が何故それを信じてしまえるのかが今になって分からなくなっていた。 「自分の事を孤独だと思っていて、それがつらいなら、私はその人の事を感じる事ができるよ」  ひよりは死んだ人間を食べてから孤独であるかを判断しているのではなく、初めから孤独な死人だけを選んで食べているのだった。生きている内からそういう人間を探しておいて、死ねばそれを迎えに行く。ひよりは死神だった。 「自分の超能力を信じるのは……理由が必要だと思ってない。あなたが自分の眼や耳を信じるのと同じ事だよ」  ひよりの返答は私の疑問への答えになっていない。たとえ故人が自身を孤独だと思っているからといって、それは本当の孤独なのだろうか。確かに、遺骨の引き取りさえ拒否された青年は孤独であった。しかし、これからひよりが食う人もそうだと言えるだろうか。ひよりのする事は、どこかにいるかもしれない、故人を想う人に弔われるという、故人が孤独でなかった事の最期の証明の機会を奪う事になりはしないか。遺体が見つからなければ、その人が確かに死んだのだという事さえ誰にも受け止められず、宙に浮いたままになってしまうのではないか。 「それで、もしそんな人が誰もいなかったら、あなたはどうするの。結局誰にも何とも思われず、死体を燃やされて、埋められて、それっきりになる人に、あなたは何をしてあげる?」  その時は私が花を供えるのだ。 「あなたはもうあの人の事で手いっぱいの筈。これ以上は抱えられない。今回の一人は大丈夫かもしれない。でも次の人は?次の次の人は?私が他の人を見つけるたびにあなたは私の代わりに悲しんであげる?顔も知らない相手の為に?数が増えるごとにあなたは何とも思わなくなっていく。止め時を見失って、気が付いた時には全てが台無し」  ひよりはまるで自分が私に見捨てられてしまうかのように、苦しそうに捲し立てた。ひよりは本当に自分が捨てられると思っているのだ。自分と死んだ人間を混同して、完全に冷静さを欠いていた。  ひよりのやっている事は諦めだ。死んだ人間が本当に一人きりだったのか、まだ分かりきっていない内からそれを肯定して、あなたは確かに一人ぼっちでしたねと言う事が死者の心に寄り添う事になると思っている。そして、遺体を食うという不可逆の行為によってその結末を不動のものにしている。その歪さが分かっているから、ひよりは自身の行いを私のそれよりも下に位置付けているのだ。私たちが人間なのか人外なのかというのは、ひよりが後付けで用意したそれらしい理由に過ぎない。  ひよりは私の止め時なるものを気にして、自分でも相応しくないと思っている葬儀を、今度は私に代わって行おうとしている。しかし、それは誰のためになるというのだ。私は自分の限界を信じない。本当に私に限界があるかどうか、それは予め見切りを付けられる物ではあるまい。  私は正面からひよりの両肩を掴んだ。ひよりは私の顔を見ようとして視線を彷徨わせながら、しばらく黙っていた。真っ向から否定されてもひよりに憤りはないようだった。むしろ言葉を選んでいる風だった。  通った事の無い道を通るのは新鮮な気持ちがし、この後に待っている、この道を通る理由を思うと緊張もした。  ひよりは団地の一角の駐車場に入っていく。見たところ行き止まりなので、併設されているアパートが目的地なのだろう。  ひよりに倣って建物を見上げる。灰色の外壁は全体にいくつも浅い亀裂が入り、亀裂の周囲は黒ずんで汚れていた。ベランダの柵は塗装がぼろぼろに剥がれ、赤茶色に錆び付いている。建築のデザインからして私が生まれる前に建てられたのは確かだろうが、実際の築年数以上に古ぼけてみすぼらしく見えた。  以前から住んでいた者が出ていく事も無ければ、新しい者が入ってくる事もない、停滞した団地であろう。ベランダに洗濯物を干している部屋がなければ廃墟と見分けがつかず、今どれだけの人が住んでいるのかも分からない。カーテンもなく、外から天井がはっきり見える部屋もいくつかあった。 「あの部屋」  ひよりは三階の一室を指さした。カーテンが閉まっていて中は窺えない。 「窓から入って鍵を開ける。入りたければ玄関に回って来なさい」  三階の窓にどうやって侵入するのだろう。窓に鍵がかかっていればどちらにせよ入れないのではないか。 「登るのは簡単だよ。鍵をどうするかは見てから判断する。かかっていれば窓を壊すし、三階以上は開けっ放しの人も多いからね」  集合住宅の壁を登るなど、目立つし不審だ。窓を破れば音がする。 「登るのはほんの短い時間で済む。あなたの不安はもっともだけど、人には見られない自信がある。窓が割れる程度の音は日常では普通に聞く音だ」  言うと、ひよりは片腕をひよこの首にして伸ばし、嘴で目標のベランダの手すりを咥えた。尺を取るようにひよりの身体が浮き、一瞬でベランダまで運ばれる。かかる時間は短いが、人に見られた時のリスクは普通の空き巣の比ではない。  続いて窓を破る音がした。ただ、音の正体をあらかじめ知っているから窓を破る音と判断できるだけで、何も言われなければ小さなコップが割れた程度にしか思わないだろう。手口として感心は出来ないが、確かに慣れているようである。  他人の家の窓が割れた程度の事は誰も気にしないのが普通なのか、姉井達が私の家の窓を破った時も誰も家には来なかった。この程度の事まで心配して様子を見に来てくれる人がいるなら、もとよりあの部屋の住人は自らを孤独とは思わないのだろう。  私はひよりに言われた通り、玄関に回る為に歩き出した。  玄関を開けるとかすかに腐臭がした。この部屋の主の物か、死後放置されている生ごみの類か判別できない。古い靴箱の上に、枯れた花と花瓶がそのままになっていた。  靴を脱いで奥に上がると、ひよりの傍らには布団を被ったままの老人の遺体があった。眠ったまま死んだのか、起き上がろうとして起き上がれなかったのか。死に顔に苦痛は見えなかった。 「それで、どうするの」  座り込んでしばらく老人の顔を眺めていたひよりが顔を上げて私を見た。死んだ人間が本当に孤独だったのか、その死を私は悼む事が出来るのか、それを確かめるために私はひよりについてこの部屋にやって来たのだ。  良く整理された古い物ばかりの部屋を見渡すと、どこを向いても飾られている写真立てが目についた。ほとんどが老人の比較的若い頃の写真で、どれも家族らしき人々と笑顔で写っている。  故人には良い過去があり、穏やかで丁寧な晩年があった。私にはこれが死を誰にも惜しまれる事もない人の部屋とはとても思えなかった。ましてや人外との同化が故人の最期の希望になるとは露ほども信じられなかった。  ポケットから携帯電話を取ると、ひよりは私の手首を掴んだ。 「この人の孤独がただの思い込みだっていう確信があってあなたはそうするんだね」  ひよりの超能力は正確だろう。故人は間違いなく己の孤独を厭い、その想いを払拭する事が出来ないまま死んだ。しかしその想い自体が間違いであったろうと私は思う。あるいはこの死がきっかけとなって、何かの行き違いは正されるだろう。その可能性を否定した先には何もない。 「もしあなたが私の言った通りになったら、あなたは私を邪魔した事になるよ。最初に言ったけど、私は邪魔する人を殺す事を何とも思わない。あなたがしている事が、私を騙して邪魔をしていたんだっていう事になれば、私はあなたを殺す。それでも良いなら……良いなら、どうぞ」  ひよりは離した手を私の電話に向けた。人を呼んでも良いという事だった。  私は布団の中の老人の手に触れた。年相応に肉は少ないが皮膚は柔らかく、骨が目立つ冷たい手だった。  遠くにサイレンの音を聞きながら私達は帰っていた。いつの間にか私も犯罪歴が増えている気がする。  手は繋いでいなかった。私はひよりに前を歩かせて、自分はそれに追いつかないようにして歩いていた。  私を視界に入れたそうにちらちらとしていたひよりは、急に身体ごと大きく振り返ると、そのまま後ろ向きに歩きながら、はにかむような、泣きそうなような、曖昧な笑みを作って言った。 「私は別にあなたが嫌いな訳じゃないんだよ。私はあなたの事も心配なの。今のあなたは、面識もない死んだ人間の事ばかり考えて、それで息が詰まってるように見える。そうなって欲しくないから言ってるの。私の気持ちも分かってね」  私はまた前を向いて歩いていくひよりの手を握った。ひよりにはこの酷く小さい手を私に向かって伸ばせない時がある。その時は私からひよりの手を握ってやらなければならないのだという事が私には今まで分かっていなかった。 「何?」  ひよりが私を嫌うとは端から思っていないし、手を繋ぎたいから握っただけだと私が言うと、ひよりはにへらと幼く笑って、私の手を引くように明るく歩きだした。  ひよりの上着のフードが裏返りそうになっていたので、私はそれを直した。ひよりはされるがままで何も言わず、もう振り返りもしなかった。